末國光彦
中国電力(株) 流通事業本部 部長(土木) 会員
はじめに,平成23年東北地方太平洋沖地震(以下「3.11地震」)およびその後の余震,平成23年 7 月新潟・福島豪雨で被害に遭われたすべての方々に対し,心からお見舞い申し上げますとともに,長期にわたり復旧・復興にご努力されている関係者の皆様,特に昼夜を分かたずライフラインである電力設備の復旧などに携われている方々に対し,畏敬の念を込めて一日も早い完全復旧・復興されることを祈念いたします。
さて,3.11地震およびその後の余震による被害や影響は,電力設備の安全性確保への社会的関心をかき立て,一般の人々からの説明責任要求の高まりを生じてさせている。このような状況を踏まえ,次の世代のために今一度,電力設備の「安全・安心」について立ち止まって振り返り考えてみたい。
電力設備は,「低廉かつ安定な電力供給」や「電力品質の確保」等の使命を全うするため,法令,基準,規則および自然条件等の多種多様な条件や情報,時には暗黙知的な経験則などに基づき,合理的な設備形成・保全,安全かつ効率的な運用・運転が図られている。また,行政や一般の方々への適切な情報発信などにより,電力設備の維持・運用に対する信頼の獲得に向けた取り組みが従来から継続的に行われている。
このような中,3.11地震の発生により,巨大津波が沿岸部の原子力発電所や火力発電所に著しい被害を及ぼしたことは周知であるが,水力発電所では一部に被害にはあったものの重大な損傷や第三者被害は幸いになかった。しかし,灌漑用ダムの「藤沼湖」決壊とそれに伴う第三者被害は記憶に新しく,マスコミ報道を契機としてダム周辺および下流住民から地震に対するダムの安全性に関わるご質問を従来に増していただいており,我々はその「安全」が確保されている根拠を丁寧に説明させていただきながら「安心」の獲得に向け,地域との信頼関係の構築・維持にも心掛けながら取り組んでいるところである。
3.11地震が顕在化させた「リスク」は,人々が抱いた従来のイメージをはるかに上回っており,生活環境に関連の深い電力設備に対する「不安感」を増加させているように思われる。「安心」は,「安全」のように定量的な分析・評価から客観的に示すことが難しく,「体感治安」という言葉のように感覚的・主観的な側面が非常に強いものである。
「体感治安」は,「人々が感覚的・主観的に感じている治安の情勢」を意味し,統計的な「指数治安」と対比される。この言葉が作られた1990年代の一般刑法犯罪認知件数(窃盗を除く)が,戦後の混乱期〜昭和30年代と比べむしろ減少傾向1)であったものの,サリン事件や無差別殺傷事件などに代表される犯罪の「質」の悪化(凶悪化など)や不特定多数の人々に影響を与える「規模」の拡大(被害者数など)もあり,これらがもたらした「安全神話の崩壊」が,国民生活の「不安」を惹起したものとして表現されている。現時点では,犯罪件数の増加や検挙率の低下などの「指数治安」の悪化に加え,犯罪の凶悪化や巧妙化が顕著となっており,更なる「体感治安」の悪化をもたらしている。一方で,マスコミの犯罪報道(犯罪被害者を取り上げる比重の増加)が「体感治安」の悪化に影響を与えていることも否定できず,予断と偏見のない客観的・正確な事実や情報に基づく対応が不可欠であることを示唆している。
さて,「体感」の変化は,「指数治安」で示される不快事象件数の増減のような単純な数字の変化よりも,それぞれのもつ「質」や「規模」によって強く影響を受けると考えられる。自然災害に係る降水量を例にとれば,災害に繋がり易い時間雨量 50 mm 以上等の短時間集中豪雨の増加傾向は,人々に洪水や土砂災害の発生などに対する「不安」を抱かせる。また,『ゲリラ豪雨』のようなマスコミで頻繁に用いられる降雨の「質」を強調する造語は,新たな「リスク」として認知され,人々の間で「リスク」に対する「不安」が増幅されていく。つまり,「体感」という視点で「リスク」の質的な変化を捉え,対応することが大変重要であることを示している。
また,地震,豪雨のような近年頻発する自然災害に限らず,米ドルの世界基軸通貨としてのステータス喪失に伴う経済情勢の不安定化などのような人々を取り巻く様々な環境変化も,「体感」を著しく悪化させ,時には衝動的な行動を引き起こし,さらに感覚的・主観的な不安心理の行動が連鎖・集団性を生んでいる。このような社会現象は,生成・沈静化を繰り返すなかで「不安」は確実に蓄積・潜在化し,「リスク」で定義されるようなイベントの度に「不安」が覚醒するというプロセスをたどっていると考えられる。
現代社会は,常に社会構造の変動・転換を受けているため多種多様な「リスク」が存在し,経済学的議論で語られる定量化されるリスク論のみでは解決できない。このため,ドイツの社会学者のウルリヒ・ベックがリスク社会論2)で指摘している『経済の発展と科学技術の発展がもたらした環境と生命に関わるリスク』と『個人化(自由の獲得)と政治の変質(非政治的な経済・科学活動による社会変化)がもたらした社会と人間の関係に関わるリスク』といった,従来は定量化が困難で「不確実性」と解釈されていた領域にある「リスク」に対して,状況に応じた多様な対応が求められている。また,「不確実性リスク」は,区別・境界のない時空を容易に飛び越え拡散する「グローバルなリスク」であることにも考慮しなければならない。
「人々がリスクに対して覚醒し,敏感な対応をとり始めたリスク社会」への対応は,我々電力土木技術者においても重要な課題である。リスク社会論では,「自然災害リスク」より「人間の行為に基づくリスク」を重要視しているものの,電力設備(人間の行為によって形成されたもの)に関わる我々は,常に「自然災害リスク」に謙虚に立ち向かい,適切に対処することによりステークホルダーへの影響を回避・軽減・代替し,影響を最小化する基本スタンスで取り組む必要がある。なお,ここでは「質」や「規模」の不確実性を伴う「自然災害リスク」も「不確実性リスク」として捉えている。
設備の安全性は,平常時の適正な保全・運用管理および管理結果から導かれる評価により,可視的・定量的な検証が可能である。また,地震等のイベントに伴う設備の異常の有無に対する見極めや高経年設備の評価などは,蓄積された平常時の検証結果との比較・検証,あるいは耐震性能照査や余寿命予測のように将来生じるかもしれない事象に対する安全性の調査によって,かなりの範囲で可視化・定量化が可能となってきている。しかし,設備管理する側が可視的・定量的な評価に基づき「安全」と判断した結果をもって説明を行ったとしても,一般の人々が設備に対する「安心感」を持ちにくいのは何故であろうか。
大規模地震や直下型地震,局所的集中豪雨などの発生に伴い,設備や運用に係る安全性の説明を行政や地域住民に対して行うことがある。このとき安全性の説明は尽くせても,相手方の「安心」を獲得することは並大抵のことではなく,地域との日頃の「繋がり」や「一体感」の醸成度合いによって変化することを意識させられる。「体感治安」の悪化の要因の一つに「関係者の信頼関係の疎遠・喪失」が挙げられている。我々は,電力設備の「安全・安心」に基づくという信頼関係構築のなかで「繋がり」や「一体感」の醸成といったものが,一般の人々の視点との間で乖離を生じていないのかを見極めておく必要があろう。設備に対する「安心感」の獲得は,日常の信頼関係から生み出されるものと考えられ,継続的かつ適切な情報発信・共有化,時には「顔と顔」「膝と膝」を付き合わせた対話に基づく信頼関係の構築が求められる。
また,技術者としてのプライドから「安全」を説明するにあたって,工学的な論証に基づいて専門的に理路整然あるいは縷々と行ってしまうことがある。これも一般の人々の「安全」の理解を得て「安心」の獲得する過程において障害となる可能性がある。「安全・安心」の獲得には,設備管理者として真摯かつ毅然とした姿勢で,説明内容を聞き手の立場に立ち見直すことも必要である。ただし,注意すべきは,定量的な説明において状況によっては深い理解なく「数字」が独り歩きする場合を十分想定し,「数字」の持つ意味や精度・バンドといった工学的に避けられない不確定な要素の重要度や影響度などにも言及して理解活動を行う必要がある。
さらに,我々が行った安全性の検証結果について,「有識者などによる第三者評価」を受けることは,客観性・信頼性の担保という面から「安全・安心」を獲得するための重要な位置づけとなる。安全性の検証のための一連の作業は,単純かつ愚直に実施しなければならないが,これら客観性や透明性などの適正性確保は,「安全・安心」の根幹であり,その一翼を担う電力土木技術者は,自信と自戒を持ちながら,危機管理の第一人者の佐々淳行氏の言葉である「最悪に備えよ。悲観的に準備し,楽観的に実施せよ。」3) という心構えで取り組んでいく必要がある。
以上,3.11地震以降の電力設備の安全に係る「体感治安」についての所感を述べたが,一般の人々との信頼関係の構築および設備に対する「安心感」獲得への取り組みは,マラソンのごとく一歩一歩の積み重ねが肝要である。このためには,「リスク」の正確な理解・共有化のうえで,地道な情報発信や理解活動の機会の創出や展開などの取り組みによって説明責任を着実に果たすことが最善の道と考える。
1) 法務省「平成22年版犯罪白書のあらまし」:http://www.moj.go.jp/content/000057052.pdf
2) Ulrich Beck(東廉/伊藤美登里訳)「危険社会―新しい近代への道」財団法人 法政大学出版局
3) 佐々淳行「完本 危機管理のノウハウ」文芸春秋